日本音楽ヘルパー協会
現場で使える音楽療法の企画・立案
大阪府寝屋川市東大利町4−8サモックホール内

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 「幸せは歩いてこない、だから歩いていくんだね」水前寺清子の三百六十五歩のマーチが流行った昭和42年12月、私は大阪の寝屋川という街に嫁いできた。ちょうど、相良直美の歌う「世界は二人のために」が紅白歌合戦で歌われた年でもあった。今は亡き、夫の姉が「ちょうど今のあなた達ね!」とテレビを見ながら言ってくれたことを、昨日のように想い出している。
 現在も残っているマンションの203号室、寝屋川の「東西南北」全く知らないままの新生活だった。昭和43年に長男、46年に次男を授かった。子育て、近所付きあいの中で自然発生的に「歌」が生まれ「歌」で繋がりが出来ていった。現在も続いている「コール・グラーヴェ」という女声合唱団は、昭和50年頃Yさん宅の6畳の間で、たった6人の「歌ごえ井戸端会議」として生まれた。

つまり私のボランティア音楽活動の源流である。

 夫と子ども2人、それに近所の方達に囲まれた幸せな毎日だった。息子達の通う西小学校のPTAコーラスの仲間に入れてもらって歌った。運動会のフォークダンスにも参加した。いつの間にか「音楽仲間」が増えていった。ミニミニサークルの誕生である。
 サークル活動のミーティングは、いつも駅前のマクドナルドの2階を陣取った。コーラ・フライドポテトを頬張りながら、周囲に気を配りつつ会合した。「決してオバタリアンはならないでおこうね」と誓った。
 


 平成7年(1995年)1月17日、あの阪神淡路大震災が起きた。
「こんな時だからこそ、皆さんに呼びかけ何かの役に立てよう!」と決断し開催した。雑巾と皆さんからの義援金をお届けした。その後、音楽仲間の先生方にも呼びかけ、チャリティコンサートを開催し集まった義援金も赤十字を通じてお届けした。
 「いつまでもマクドナルドじゃなくて、私達どこかに拠点を持たない?」そう切り出したのは、私の音楽仲間だった。平成8年(1996年)の3月、雨の降る金曜日の昼下がりだったと思う。即、駅前の不動産屋さんに直行して、古いビルの2階をゲット。家賃6万円、どうやったら維持できるか不安を抱えたまま舟出した。「失敗したら出直せばイイ」これまた仲間の言葉が私の背中を押した。
 会の名前は、メセナボランティアグループ「ふれあい独楽」と名づけた。「メセナ」つまり仏語で、文化・芸術を支援するの意、この「メセナ」をコンセプトに私達の活動が本格的にスターとした。
 

 平成9年(1997年)11月にふれ愛ピック大阪(第33回全国身体障害者スポーツ大会)が開催され、私達「ふれあい独楽」会員70数名は、8千個の五色のはなかみで作ったポンポンと共に長居競技場に出向いた。大会の合間をぬって、障害者の皆さんとウエーブを起こした。皆で共感し、熱い思いに涙した。

これが、大規模な最初の音楽ヘルパー活動かもしれない。

 この大会をきっかけに、障害を持つ人々と持たない人のバリアフリーコンサートを開こうと言う気運が強まり、翌平成10年(1998年)7月26日寝屋川市民会館大ホールで1000人以上の観客を迎えて、第1回バリアフリーコンサート「そうるミュージックライブ」を開催し、出演者も観客も一緒になって感動した事を覚えている。
 


ビルの1室を借りての私達の活動も軌道に乗って、皆で楽しくやっていたのが、ある時、高齢者の女性が「階段に手すりがあればいいのに・・・」とポツリとこぼされた。私は「ハッ」としてすぐに家主さんに電話をした。返事はノー。私たちは、バリアフリーを目指すグループとして、この事務所にある意味での限界を感じた。
そんな折、知人のご主人が、とても素晴らしい物件をさがしてくださった。

 その年の4月3日、ふれあい独楽は、12坪の木造2階建てに移転、更なる発展を頂き私達は音楽に仲間の交流に、そして、高齢者施設への歌の出前にと、以前にも増して音楽ヘルパー活動の範囲を広がっていった。
 


 「駅前に横広の土地が50坪ほど売りに出てたよ」、この情報を私は「天の声」のように受け取った。 「欲しい!土地が私達を呼んでいる・・・」ワーグナーの歌劇タンホイザー行進曲のメロディーが心の中に広がっていった。
 「讃えよ音楽の御殿」で始まるあの楽節――半世紀昔、中学校の先生から習ったオペラの1シーンが頭の中を巡った。理由なんかどうでもいい。ここは私達の場所だと確信した。その後、紆余曲折を経て現在の「サモックホール」建設を実現した。

小さな小さなホールだが、念願の自前のホールである。
 


 2005年1月、音楽ヘルパー活動を本格的に始める拠点、「サモックホール」を確保した。そして、この頃から、市・府・他府県からも音楽ヘルパー活動の派遣要請が来るようになり、皆以前より忙しくなってきたが、「出来る人が、出来る事を、出来る時に」をモットーに楽しみながら頑張っている。
 2002年には、『音楽ヘルパー』を商標として登録させた。これからこのキーワードとともに、私達は今まで以上に皆で力を出し合って、日本全国の方々と

音楽ヘルパーの輪を広げていきたいと願っている・・・。
 

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